ホーム >> 短距離走2

短距離走2
200メートル競走
200メートル競走は、200メートルをいかに短い時間で走るかを競う陸上競技のトラック種目で、短距離走に分類させる。 カーブ120メートルと直線80メートルを走る。 スタート地点は、カーブの途中にあるため、コーナリング技術も必要である。 また直線でトップスピードに乗せるために前半のカーブでの加速が最も大事である。 200メートル競走のすべてはカーブでの走り方で決まるといっても過言ではない程である。 競技会や関係者の間では200m(200メートル)や200と略される場合がほとんどである。 また、中学校や高等学校の体育祭などでは200メートル走と呼ばれることもある。 オリンピックでは1900年のパリオリンピックより競技種目となっている。
この競技は、100メートル競走のトップランナーが上位を占める。 また100メートル競走のランナーは主に前半飛び出し型よりも後半追い込み型のほうが良い記録が出る傾向にある。 これは200メートル競走は一瞬でトップスピードに達するようなダッシュ力はさほど必要とせず、トップスピードとその持続力というスピードのコントロール、そしてコーナリング技術が最も必要なことによる。 そのため100メートルよりは、骨格・筋力的に劣るためにダッシュ力に欠ける日本人選手でも活躍する余地が十分にある。
世界的には男子では、アメリカ勢を中心としたアフリカ系選手がオリンピックや世界選手権で上位を占めること多く、それ以外の選手が上位入賞するケースは稀で、中でもアジア系の選手の上位入賞は皆無に等しかったが2003年世界選手権パリ大会で末續慎吾(日本)が銅メダルを獲得する快挙を達成し、世界的なニュースになった。

-
マイケル・ジョンソン
マイケル・ジョンソン (Michael Duane Johnson, 1967年9月13日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州ダラス出身の元陸上競技選手である。 身長185cm、体重78kg。 5人兄弟の末っ子である。 1996年にジェームスサリバン賞を受賞した。
400m、1600mRの世界記録保持者である。 200mで21連勝、400mで56連勝を成し遂げる。 背筋を伸ばした独特のピッチ走法に特徴がある。 世界陸上で9個(史上最多)、オリンピックで4個の金メダルを獲得した。
1991年の世界陸上が、ジョンソンが初めて臨む世界の主要大会となった。 200mの2次予選では、最後を流しながらも大会新記録(当時)(20秒05)をマークすると、決勝では向い風3.4m/sの中、20秒01と再び大会記録を更新して優勝。 2位のフランク・フレデリクスに0.3秒以上の大差をつける圧勝であった。 1992年、全米五輪トライアル200mで優勝し、アメリカ代表入りしたが、バルセロナオリンピックでは食中毒のため準決勝で敗退してしまった。 しかし、そんな状況の中で、1600mRでは3走を務め、2分55秒74の世界新記録(当時)で金メダルを獲得した。 1993年の世界陸上では400mと1600mRで2冠を達成。 なお、アンカーを務めたリレーでは42秒91のラップタイムを記録している。 1995年世界陸上イェーテボリ大会では、200mで19秒79の大会新記録(当時)、400mでも43秒39の大会新記録、そして1600mR(4走)でも2分56秒45で優勝し、三冠の偉業を成し遂げた。 なお、200mの大会記録は2007年世界陸上大阪大会でタイソン・ゲイが出した19秒76という記録で破られた。
1996年、全米五輪トライアル200mで、それまでの世界記録(19秒72)を17年振りに更新する19秒66をマーク。 400mでも優勝し、アメリカ代表となる。 アトランタオリンピックでは、初戦となる400メートル走で43秒49の五輪新で優勝。 続いて200mでは自身の持つ世界記録を大幅に更新する19秒32の世界新記録で優勝した。 このとき彼は、前半100mを10秒12、後半100mを9秒20の驚異的スピードで駆け抜けた。 彼自身『コーナーの出口で勝利を確信した。 生涯最高のスピードで走っているとわかったよ』などと語った。 そして、そのあまりのスピードのためか右ひざを痛め、このオリンピックではリレーを走っていない。 このジョンソンの出した男子200mの記録は「向う100年は破られない」と言われていたが、この記録から12年の時を経た北京オリンピックにおいて、自身の眼前でウサイン・ボルトが出した19秒30という記録でジョンソンの世界記録には終止符が打たれた。
1997年、「世界最速決定戦」として当時の100m9秒84の世界記録保持者ドノバン・ベイリーとの「150メートル走」対決がカナダで行われた。 しかし、ジョンソンが脚の故障を理由に途中棄権、ベイリーが勝利した。 同年、彼は3連覇を目指して世界陸上に出場したが、足に故障を抱えてであった。 実際、彼は足への負担を考慮してであろう、2次予選で1着を狙わず、最後の直線を流してフィニッシュしたが、4着取りのところ5着となってしまい、タイムで辛くも準決勝進出という場面があった。 しかし、最後はきっちり優勝し、貫禄を見せた。 因みに優勝タイムの44秒12は、彼のオリンピックと世界陸上タイトルの中では唯一44秒かかった。
1999年の世界陸上では400mで大会4連覇を達成するとともに、決勝で43秒18の世界新記録を樹立した。 また、リレーでも優勝し、9つ目の金メダルを獲得。 これにより、カール・ルイスが保持していた世界陸上金メダル獲得最多数「8」を破った。 2000年、シドニーオリンピックで、男子400mではオリンピック史上初の連覇を達成。 アンカーを務めたリレーでも優勝した。 ただし、リレーに関してはメンバーのアントニオ・ペティグルーにドーピング使用が判明したため2008年8月に失格となり、金メダルが剥奪されている。
2001年9月15日、横浜で開催されたスーパー陸上2001において、スウェーデンリレーのアンカーとして走り、1分47秒93で優勝(DREAM TEAM(F・フレデリクス→T・トランメル→S・クロフォード→M・ジョンソン))。 競技人生に終止符を打った。 また、ベン・ジョンソンとの比較で彼は『クリーン・ジョンソン』とも呼ばれた。
上述の通り、200mと400mで数々の記録とタイトルを独占したジョンソンだが、陸上競技者でのこの2種目が専門というのは非常に珍しいケースであり、そういった意味でもジョンソンが驚異的な選手であると言える(多くは100mと200mを専門にする選手がほとんど。400mは陸上競技短距離走の中でもっとも過酷であり体力の消耗が激しいため400mのみを専門にするのが常である)。 また、ジョンソンのその驚異的なスピードが故で、普段の練習で競える練習相手がいなかったために、光の掲示板(速度調節が可能な物)を使って練習をしていたというエピソードが残っている。

-
タイソン・ゲイ
タイソン・ゲイ(Tyson Gay, 1982年8月9日 - )は、アメリカ合衆国の陸上競技選手(短距離)。 ケンタッキー州レキシントン出身。 身長183cm、体重73kg。
2005年、彼は200mに専念し、自己ベストとなる19秒93を出した。
2005年、フィンランドのヘルシンキで行われた世界陸上200mで4着だった。 しかしこのレースでは、1位から4位までをアメリカ勢が独占しており、彼はアメリカ人選手の中で唯一メダルをもらえなかった。
2006年7月11日、彼はスイスのローザンヌで開かれたIAAFグランプリ200mで世界歴代5位(当時)となる自己ベスト19秒70をマークし2着になった。 このレースの優勝は19秒63の世界歴代2位(当時)の記録を出したゼイビアー・カーターだった。
2006年8月18日、スイスのチューリッヒで行われたレースで100m9秒84(当時世界歴代3位タイ、自己ベスト)の好タイムで2位になった。 この時の優勝は9秒77の世界記録タイ(当時)を出したアサファ・パウエルだった。
2006年9月10日、ドイツのシュトゥットガルトで行われた200mでフランク・フレデリクスと並ぶ19秒68の世界歴代3位タイ(当時)の記録を叩き出した。
2007年インディアナポリスで行われた全米選手権では、100mは向かい風0.5m/sの中9秒84(当時世界歴代3位タイ、自己ベストタイ)の大会新で優勝し、200mでも向かい風0.3m/sの中19秒62(当時世界歴代2位、自己ベスト)の大会新で優勝し、二冠達成。
2007年の世界陸上大阪大会では、8月26日の100m決勝で、前半リードしたアサファ・パウエルを後半追い抜いて9秒85(-0.5m/s)で優勝し、8月30日の200mも向かい風0.8m/sの中19秒76(大会新記録)で優勝、9月1日の4×100mリレーでも37秒78で優勝(第3走者)し、モーリス・グリーン以来の世界陸上三冠を達成した。
2008年5月31日、アメリカ、ニューヨーク州の大会の100mで、追い風1.7m/sの好条件下で自己ベストに迫る9秒85を出しながらも、9秒72の世界新記録(当時)を出したウサイン・ボルトに大差で敗れた。
2008年、全米陸上競技選手権では、100mで、6月28日の2次予選では追い風1.6m/sの好条件下、ゴール手前で流しながらも9秒77の全米新(世界歴代3位、自己ベスト)を出し、翌日29日に行われた決勝では追い風4.1m/sという強風の中9秒68(追い風参考記録)という驚異的なタイムで優勝。 追い風参考記録やドーピングにて剥奪された記録なども含めるとこの記録が「人類最速」のタイムであり、未だに9秒6台をマークしたのはオバデレ・トンプソン(9秒69、+5.7m/s)(追い風参考記録)、タイソン・ゲイ(9秒68、+4.1m/s)(追い風参考記録)、ウサイン・ボルト(9秒69、+0.0m/s)の3人に過ぎない。 しかし、7月6日に行われた200m2次予選では、左太ももの肉離れで30m付近で転倒し、途中棄権になってしまった。 よって、彼は200mでの北京オリンピックの出場権を得られなくなった。
2008年8月16日、北京オリンピック100m準決勝で、故障の影響もあってまさかの5位に終わり、決勝進出を逃した。 アンカーとして出場した4×100mリレーでも、バトンミスで途中棄権になり、予選落ちという結果に終わった。
2009年5月2日、アメリカ、テキサス州のレースで、400mの自己ベストを45秒57に更新。
2009年5月30日、アメリカ、ニューヨーク州で行われた200mのレースで、追い風1.3m/sの好条件下で19秒58をマークし、世界歴代3位だった自己記録(19秒62)をさらに縮めた。
2009年7月10日、ローマでの100mのレースで自己記録と同タイムの9秒77を記録した。

-
400メートル競走
400メートル競走は400メートルをいかに短い時間で走るかを競う陸上競技のトラック種目で、短距離走に分類される。
陸上トラックをちょうど1周する。 レースには瞬発力だけでなく、フィニッシュまでできる限りスピードを落とさずに走りきる持久力も必要である。
この400メートルという距離は医学的に「人間がスプリントで走りきれる限界の距離」とされており、そのためレースは大変過酷なものとなる。 この種目は日本人選手にとってトラック種目で最も不向きな種目と言われていたが、1991年東京世界選手権及びバルセロナオリンピックで高野進がともに8位以内入賞を達成し、日本人選手の可能性を示した。
競技会や関係者の間では400m(400メートル)や400と略される場合がほとんどである。 また、中学校や高等学校の体育祭などでは400メートル走と呼ばれることもある。
ラショーン・メリット
ラショーン・メリット(LaShawn Merritt, 1986年6月27日 - )は、アメリカ合衆国の陸上競技選手である。 主に400mを得意としている。 彼は2007年に行われた世界陸上の4×400mR金メダリストであり、同大会の400mでは、ジェレミー・ウォリナー(アメリカ)に次いで銀メダルを獲得した。 この時のタイムは43秒96で、これは世界歴代8位(当時)の記録となった。 北京オリンピックの400mではウォリナーを下し、金メダルを獲得した。
2004年に行われた世界ジュニアで、400m、400mR、1600mRで優勝し、3つの金メダルを獲得。 その名を知らしめる。 しかも、400mは当年ジュニア世界ランク1位、リレーはともにジュニア世界新であった。 本来はロングスプリンターの彼だが、この年は200mでも20秒72の記録(当年の全米ジュニアランク4位)を出していて、400mRのアンカーにも起用された。
2005年は室内で史上2人目の44秒台を出した。 しかし、屋外の全米選手権では400m4位だったため、個人では世界陸上の代表になれなかったが、本戦のリレーでは予選の3走を務めた。 2006年はワールドカップ優勝。 ジェレミー・ウォリナーが無敵を誇っている状態のため、2番手を追う形だった。
上述の通り、メリットは400mを得意としているが、それだけではなく、200mでも19秒98という好記録を持っている。 200mの19秒台、400mの43秒台という記録は、短距離走の「大台」と言われているが、これら2種目でこの記録を達成したのは、マイケル・ジョンソン(200m:19秒32、400m:43秒18)以来で、史上2人目の快挙となった。

-
ジェレミー・ウォリナー
ジェレミー・ウォリナー(Jeremy Wariner, 1984年1月31日 - )は、アメリカ合衆国の陸上競技選手である。 2004年アテネオリンピックの400m、1600mリレー及び2008年北京オリンピックの金メダリストである。 テキサス州アービング出身。
400メートル走では、白人選手としては1980年モスクワオリンピックのビクトル・マルキン以来のオリンピックの金メダリストであり、アメリカの白人選手に限ってみれば1964年のマイケル・ララビー以来となる金メダルを獲得した。
2001年にアメフトと陸上で迷った末に陸上を選んだ。 アメフトでもスターになれる素質を持っていたが、その選択に間違いは無かったと言える。 2003年にその年のジュニア世界ランキング1位となる45秒13(なお日本の山口有希が彼と同じ年齢で、45秒18のジュニア日本記録で同2位)をマーク。 戦績は全米ジュニア、パンアメリカンジュニア、共に2位。
2004年、この年を皮切りに彼は鮮やかな変貌を遂げる。 NCAA選手権、全米五輪トライアルと立て続けに勝ち、世界大会初代表。 そのまま五輪本戦でも金メダルを獲得。 一躍、新スターとして名乗りを挙げた。 そのときの優勝タイムは44秒00で、マイケル・ジョンソン引退以降では、当時世界最高だった。
2005年世界選手権ヘルシンキ大会優勝(43秒93)、これは世界歴代7位、史上8人目の43秒台ランナーとなった。 これは100mの9秒台、200mの19秒台と並んでスプリンターの大台だが達成者の数から言えばこの種目だけが極端に少なく、そこに大きな価値がある。 2006年、記録は43秒62まで伸び、世界歴代4位に浮上。 陸上グランプリシリーズ最高峰ゴールデンリーグでも6戦全勝とし、ジャックポットを獲得した。
そして2007年、ストックホルムでのDNガランにおいて、43秒50の世界歴代3位タイの記録を出し、同年の世界陸上選手権大阪大会では、世界歴代単独3位となる43秒45の記録を出した。
2008年、全米陸上でラショーン・メリットに敗れ、2位。 連覇を狙った北京オリンピックでは、準決勝で余裕をもって44秒15を出すなど、好調な様子を見せていた。 しかし、決勝では直線入口でメリットに並ばれるとそのまま離され失速。 最後はレースを諦めた形でフィニッシュ。 2位は確保したが、1秒近い差をつけられての完敗だった。
最近の人妻は孤独で寂しいのです。だから 人妻の本当の内面を見ましょう。
|